melancholy youth

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12/25


世間はクリスマスとかなんとかで、僕はバイトに勤しんでいたわけで。まあそんなことはどうでも良いんですよ、本当に。


終わってしまったよ。。。ぼっち・ざ・ろっく!。。。今までは次の日の朝に観るとかそんな感じで観ていたのですが最後はリアタイで観たい、とabemaで視聴していました。

始まりがあれば終わりがあって、出会いがあれば別れがあって、そんな当然のことを分かっているはずなのにどうしてもしがみついてしまう。こんなにも終わってしまうことが虚しい気持ちになったことが嘗てあっただろうか。いや多分それぞれの時期であったはずなんだけれど、上手い言語化とかをせずにいられたというか、結局そういうのを乗り越えていけたからこうして今も生きているのだと思う、思うんですよ。。

まるでそこに実在していたかのような、いやしていたんだ、テレビの中で、パソコンの中で、作品の中では。実在する街、実在するバンドハウス、オマージュや景色すらも本当のようで、でもそれはフィクションの世界。残酷にも没入する為に用意された場所だった。そんな場所においても、変な感情を曝け出し、浸り、笑ったり、そして涙を流してしまう。どのアニメーション作品にもそれは当てはまることなんだけれど、僕にとっては"ぼっち・ざ・ろっく!"がそれに値するものだった、ということ。

今回もネタバレありの感想文です。
(前回の感想、特に1~10話までのものはこちらに。)



...学園祭で演奏を披露するというのはけいおん!と同様のもので、しかし彼女らはあくまで部活ではなく学校外において活動するバンドだ。そして1つのライブハウスをも背負いそのステージに立っている。11話の曲入り前で終わる寸前の一瞬入るノイズ、それはぼっちのギターでの違和感からなる音だった。


"忘れてやらない"、カウントインからアジカン味を感じさせるようなギターのフレーズとリフから入り、そして以降のバンドのサウンドを感じさせる楽曲。演奏の安定感、スカッとするようなサウンド、当然のように抜けの良い喜多ちゃんのボーカル(及び長谷川育美氏の声の良さ...)、全部がビタっとハマるような楽曲がこんな文化祭で聴けたらもう虜になってしまうんだろうな、、、なんて想像が容易く浮かんでしまう。ぼっちの父がビデオカメラで撮影しながら泣いていたけど同じ気持ちになってしまった。あまりにも眩くて曲調は明るいのに涙腺を刺激した。


続く2曲目の"星座になれたら"、カッティングギターと小気味良いテンポでダンサブルなナンバー。これまでと違いフュージョン寄りというかアプローチの幅広さを感じさせる楽曲。ただこの演奏中ぼっちのギターの弦が切れ回すペグが壊れてしまうという事態に陥る。そこに喜多ちゃんがすかさずギターでのアプローチを取る。本人の努力が窺えるシーンで、機転の利く彼女の良さが垣間見える部分でもある。リカバーしてくれてる間に廣井きくりが置いていた空き瓶が功を奏すボトルネック奏法で弦を鳴らすぼっち。お互いがお互いを補いバンドを保ちつつ違和感を最小限に抑える演奏に昇華している様は観ていて鳥肌が立った。

無事に演奏が終了するかと思ったらまさかのクラウドサーフを試みてしまうぼっち、、、。ライブに慣れていない生徒は当然避けてしまい事故同然の事態になる。こうグッと感動していたところに笑けを仕込んでいるのがやっぱり漫画的というかなんというか...。
アニメ的な要素で言えばゲロゲロ〜!と動画に付属するコメントについて指摘されたぼっちの反応が若干"日常"みを感じさせたり、楽器を見に行った際の虹夏ちゃんに対する想像での謎のムキムキマンみたいな描写、腹話術ぼっちと相変わらず細かいところのネタで笑けてしまう。バイト辞めるぞ〜!のぼっちがスーパーサイヤ人化している裏でRage Against the MachineみたいなBGMが流れているのもふふっとなった。


保健室での1シーンで、喜多ちゃんの独白のような、何処となく陰を落とすような部分が現れる。本人以外からすれば喜多ちゃん自身がポジティブで、喜多ちゃんのそのパワーで周りに人が集まってくるように思えるが、実際には本人が人に合わせているというようなことが語られる。誰しもが何処かに孤独を抱えていたり、楽しそうに見えるあの人にも思うところがあるということか。そりゃあ誰しもが人だし、それにこの子たちはまだ10代なのだ。まだ自分の行動範囲が狭い時期で、関わりがあるのは家族か、同年代がほとんどという限られた中のこと。世界との繋がりもそれくらいのもので、自分における物差しもそこまで出来上がっていない時期でもある。それでも目立って見えるというのは人に合わせるということが上手く出来ている、そしてそれを感じさせない喜多ちゃん自身の賜物でもあるのだろう。
ぼっちとの距離が近づくにつれ、自身の行動の変化がアニメ後半部から現れてゆく。最初はリョウ先輩とバンドがしたくて始めたギターだが、それは段々とバンド、そしてぼっちを支える為のものとなっていく。それに喜多ちゃん本人が気づいてしまった。それ故に戸惑いもあったのだろうが、それでもそのスタンスを曲げずに努力を続けている姿がバッキングが上手くなったと伝わる所以なのだろう。ぼっち自身は気づいてないかもしれないが呼び名が後藤さんから"ひとりちゃん"と変えていたことも...。(ひとりちゃんって呼びかける時の声めちゃ優しくて好きです...。)


父親との会話のシーン、娘の土下座にアタフタする父の姿に、ああそうかぼっちはやはりこの親から生まれたんだなと納得してしまった。父も音楽好きでギターを弾いていた経験もあるということも少しだけ出てくるが、そういう点も含めて最初からぼっちには音楽的素養はあったんだろうなと合点がいく (その性格もだろうか)。"ギターヒーロー"としての経験、趣味嗜好等が活かされ、様々な奏法についても勉強していたのだろう。"星座になれたら"でのボトルネック奏法もそれの現れだ。


壊れてしまったギターの代わりを、と楽器店に足を運ぶ面々。リョウ先輩が喜多ちゃんに"そのギター気になるの?"と聞いているシーンはやはりけいおん!を彷彿とさせる。ぼっちが店員に不慣れなところは相変わらずというか、やはり人と関わるのは難しいことなんだよと思い出してしまう。結束バンドのメンバーを除いては。

楽器屋から出て雑談をする面々。そこにスーッと入ってくる何となく聞き覚えのあるギターのフレーズ...まさかの。

分かった瞬間の大きい声と共に嗚咽が漏れ出てしまった。あまりにも美し過ぎる伏線回収。アジカンのゴッチによるnoteではこのアニメを観たという記載がなされてあり、関わっていたという感じがしないものだったのだが、ここに来てまさかのカバーで流石に驚いてしまったし、そしてとっても嬉しかった。僕は泣いた。

今まで喜多ちゃんがメインボーカルでの楽曲がほぼ全てで、リョウ先輩の"カラカラ"、虹夏ちゃんの"なにが悪い"と1曲ずつ他のメンバーによる楽曲が披露されていた。流石にぼっちも1曲くらいあるのかな、いやでも本人の性格を尊重した上で収録されないのかな...と思っていたところに...ですよ。
歌い回しが本当に後藤ひとりなんですよ。ちょっと不安定ながらもしっかりと歌い上げる姿を想像させてしまいめちゃくちゃに泣けてくる。本当に青山吉能さん≒後藤ひとりなんじゃないかと思ってしまうくらいのもので、言葉にならない程の感情が溢れ出てきてしまう。本当にぼっちを演じてくださりありがとうございます。。。。。。

オープンハットで叩くサビのドラムがクローズのまま叩かれていたり、2コーラス終わりの間奏パートでのアレンジが変化してギターソロを軸としている点等、分かりやすい部分は学生っぽさを残しつつ、結束バンドならではのアレンジングに昇華されている。多大なるASIAN KUNG-FU GENERATIONへの敬愛を共に。改めて原曲の良さも再認識出来る素晴らしいカバーだ。



結束バンドを通じて、後藤ひとりという人間の成長、そしてバンドへの思いや気持ち、各メンバーとの関わりで段々と信頼されていく姿が映し出される。今まで他者との繋がりを拒みながら生きてきた彼女が、それでも偶然や時に強引に関わりを持った結果、こんな風に変わっていけるんだと。

誰しもが簡単に歩み寄れるわけじゃない。他者と距離を置きたい人だっているのだ。でも自分から進めずともコミュニケーションを取りたい、誰かに話しかけてほしいと矛盾した気持ちを持っている人もいるわけで、ぼっちの場合動画投稿や、ギターを持って佇んでいたという自発的な行動から巡り巡ってバンドを組み、演奏をし、3人と繋がりを持つことが出来た。やらない、やれないで諦めず、行動に移せるだけでも十分なのに、尚且つそれが少しずつ形になっていきライブをして少なからず良いと思わせられているということが本当に素晴らしい。コミュニケーションも話を追うごとに出来てきている様に映るし、表情も柔らかくなっていく。ぼっちだけでなく他の3人においても結束バンドをもっと良いものにしていきたいという心情が話数を重ねるごとに段々と現れている。


かつて観てきたアニメでは純粋な話の良さで感動することはあれど、あくまでそれはフィクションだと切り取りきれたもので、ここまで感情移入してしまうものでは無かった。確かにこの世界線も同様にフィクションではあるが、音楽やバンドと言った作品におけるテーマや下北沢やSHELTERという現存する場所をモチーフにしているだけではなく、主人公である後藤ひとりのその心情や考えに自分自身を投影してしまうような気持ちにさせられたというのが大きい。
持たざる者(例えば何かしらの秀でた才能、人との関わり方、または自分にない何かに対するソレなどを持っていないと感じてしまうこと)にしか分からない感情というものが存在していて、そういう者だった自分だからこそ"ぼっち・ざ・ろっく!"で感動して涙を流してしまうんだと思う。

共感なんて分からないと君は歌詞に綴るが、その"共感出来ない"という事に共感を覚えてしまうんだよ。
陰側の人間だったぼっちが段々と光を放っていく。その姿に追いかけていくうち彼女に重ねていた自分自身のティーンネイジャーの暗い過去を受け入れてくれるような気がした。現実で打ちひしがれた者達への処方箋のようなアニメに思えた。振り返った時、僕は何度も思い出し笑いや涙が目に浮かんできてしまうだろう。


想像していた以上の喪失感が襲いかかってきて、どうしようもなく、そして何をどう言語化すれば良いのかも分からずに、ただただキーボードを打ち込んでいる。もう僕は駄目なのかもしれない。いや元々駄目だったのがより浮き彫りにされてしまった気がする。ただただ救われていたのだと思う、このアニメに。

何かに感動したりすること、共感すること。押し付けがましいポルノじゃない純粋な感情。何度も繰り返し見続けることになるもの。
それは人によって解釈は異なるし、こんな文章を読むよりもそのもの自体に触れた方が良いのだけど、何度だってこのアニメ、この作品に触れて欲しいと切に願う。



"今日もバイトか。"

そのアニメで切り取られた一部分だけではなく、ぼっち、そして結束バンドのメンバーの日常はこれからも続いていく。


(この画像ですぐに新代田FEVERを想起させられた。FEVERの運営が始まった2009年、ASIAN KUNG-FU GENERATIONがこの場所でライブをしていたことは言うまでもない。)