劇場総集編 "ぼっち・ざ・ろっく! Re:"に続き、後編となる"Re:Re:"が公開されました。
先日早速見て参りましたが…(ここからめちゃネタバレ有りです)、
前編が1話~8話までというアニメの半数以上の部分を纏め上げるという比較的駆け足な構成となっていた分、後編となる今回はその半分の話数(9~12話)となり、それぞれの話を活かす丁寧な作りになっていたように感じました。アニメで強調されていなかったシーンがよりピックアップされているような印象もあり、地続きの物語でも新鮮な印象を受けました(9話の御参りするシーンでの何をお願いしたか、という部分等)。キャラクターにズームするカット、セリフや間をアニメ本編より長めに取り空間と感情・情景描写に力を入れている等ただの切り貼りではないリアレンジが仕組まれていました。
BGMとして使われた楽曲群、9話のシーンで"青い春と西の空"が使われると思っていただけに違う楽曲だったところがなんとなく気になりました。文化祭をメンバー4人で回っていくシーンで"ラブソングが歌えない"を使ってるのは何かの皮肉なのかな...とかとも考えたり。※
新作部分である"ドッペルゲンガー"の映像、8話のシーンから地続きという設定を活かしつつ9話にスニークインする流れがとても自然なように感じました。"あのバンド"が終わって吹っ切れたように歌う喜多ちゃんの表情がとても良くて...。後編は冒頭から彼女の覚悟の物語であるということが中心軸の一つに組み込まれているので、より喜多郁代という人物の人間性に迫ることが出来るなと思わされました。また"ドッペルゲンガー"がライブ用のミックスに変換されていて、リバーブや重ねてあるキラッと光るフレーズが削られているのもポイントでしょう。聞き比べするのも一興です。
アニメでは4人の会話上からぼっちの新たなギターを持った姿、そして学校~STARRYに向かう道すがらの中、うっすらと"転がる岩~"のイントロが響いてくるという構成によって物語のアウトロ部分が形成されていましたが、今回はそのBGMを抜き取り、全てのシーンを巻き戻し、前編ではカットされていた1話冒頭のぼっちの幼少期のカットに戻る、という構成に変わっています。ぼっちが自分の人生を一からやり直す、というわけではないにせよ、ここから新しい日常がスタートするということ、それが総集編のタイトルにおける"Re:/Re:Re:"に引っ掛けた演出、からの…後藤ひとり歌唱による"Re:Re:"のカバー…! なんとなく可能性があるなと思いつつも実際に形となって届けられた瞬間の驚きと感動というのがひとしおだったなと思います。劇場で見ていてあのギターフレーズが流れた瞬間思わず口を手で塞ぎながら縮こまってしまいました。
ただ、想定していたより感動する瞬間が薄かった気はするんです。勿論作品としては良いものだし、涙が零れそうになる瞬間(個人的には10話のSICK HACKライブ後の楽屋内でのぼっちときくりさんとの会話シーン)も当然ながらありました。ただ自分がアニメ放映時と以降何度も見返していたところもあるので、それで新鮮さが薄れていたのかもしれません。(アニメーション本編よりもプロモーションが優先され過ぎているという意味合いで)勢いや熱が当時よりは少し落ち着いているというのも理由として挙げられるでしょう。それと"Re:"で喰らい過ぎていたこともあり自分の中で"Re:Re:"においてハードルが上がり過ぎていた節もあったのかなと。とはいえまだ1度きりしか観れていないのでまた劇場に再訪しておきたいとは思っていますが。
※スタッフのオーディオコメンタリー付きで観覧もしてきたのですが、キャラクターの描き分け方、カット割り、テレビ放映時との微細な変化等を語っていて面白かったです。全体的なネタバレはアレなので上記記載の自分が解釈していた部分だけをピックアップすると、作中で使用していた楽曲群は監督がチョイスしたものとのこと。楽曲の歌詞やテーマを反映したというより、そのシーンに相性が良いかどうかでの判断だったそう。
"Re:"がバンドのストーリーを軸として良い部分を抽出していた分、今回はキャラクターの面白さや心情の変化(特に喜多ちゃん)に重きを置いていたとのこと。
元々用意していたラストシーンとは別の展開になっていて関わっていたスタッフ陣も驚いていたとのこと。
今回の後編公開のタイミングで2つ目のOP/ED、そして程なくしてミニアルバムもリリースされました。そちらについても今回も所感を書き殴っていきます。
例によって勢いと主観強めのものとなることお許し下さい。ネタバレと妄想想像ありきです。前回冒頭2曲について触れているのでそちらについての解釈は省きます。
それでは、
3. ドッペルゲンガー
ぼっちのこれまでとこれからの相反する自分自身と互いを見合わせ、向き合い、そしてその自分を受け入れていくという歌詞。内気ながらなんとか世界の繋がりを保とうとした過去、そしてそんな狭い世界に居座っていた自分からの脱却を図りバンドを組んで現実と向き合う今。本当のお前は何処にいる?という自分に、あなたも私も同じ人なんだよと諭す。結局は自分の人生で自分が行動した結果なんだと理解する。
先述の通り8話のライブ時に披露した3曲目の楽曲、という設定の上、前曲であるところの"あのバンド"からの繋がりを加味してベースが同じチューニングで録音されたこの楽曲は、フレーズやパターンも同曲や"青春コンプレックス"から引っ張ってきている (特にサビの構成が分かりやすいだろうか)。前曲が終わりすぐ始まるかのようなカウントのイントロからダークトーンで突き上がっていく感覚のあるロックサウンド。テクニカルで技巧派なアレンジが散りばめられたアプローチが結束バンドたらしめているポイントとも言えるだろう。
見失わないよ、自分自身を。それでも私はあなた(わたし)を乗り越えていく。
4. 僕と三原色
(そこから逃れていたはずなのにめちゃくちゃ爽やかな青春を謳歌してしまってるじゃないかぼっち。リリック部分がいろはすのフォントに合わせたものになっているのがニクい。またこれまでのイラストやスクラップ的に配置したデザイン、新しい立ち絵を一挙に纏め上げている映像はテーマでもある"再生"や"ループ"に合わせてのことなのだろうか。)
爽やかなコーラスが光り、"ループ&ループ"ライクなドラムとギターのアプローチのイントロ、更には弦の高音部とハーモニクスによるアレンジとこれまでに無かった/主調ではなかった要素を中心軸に置いた楽曲。鮮やかに進んでいく中それでも最後に"青春コンプレックス"のイントロギターフレーズを持ってくるアウトロで締め上げる。歌詞に合わせるように濃淡のある歌声を披露する育美さんだが、突筆すべきはCメロ部のボーカリゼーション。喉の強さを感じる発声で今回の音源のレコーディングが逆に大変だったというエピソードが飛び出すほど。
偶然とはいえ自分を見つけてくれた嬉しさ、バンドをやれた喜び、まるで自分自身じゃないような出来事が自分に降り掛かってきて、戸惑いもありながらも素直に受け入れるぼっち。バンドで演奏出来たことの嬉しさを"光の中へ"では語っていたが、演奏だけではなく自分と共に過ごしてくれる3人が居るというこれまで感じることが出来なかった様々な事象を体感出来ていることを封じ込めた歌詞。ホントにバンドと友達が出来て良かったね…。
そんなバンド活動に於いての良い部分じゃないところもその喜びには勝らないかのように、ポジティブに受け止められているというところによりぼっちの心境の変化を感じさせる。燻ってた分その振り幅で調子が上がってるんだろうな (調子に乗っている、とも言えるが)、叶わなかったことが叶うことはやっぱり嬉しいもの。もし自分が今後立ち止まってしまっても、3人と一緒に居るのならば大丈夫という信頼の念も感じられる。
5. 秒針少女
爪弾きのアコースティックギターから段々とバンドサウンドにシフト。進んだ先のサビでパッと開けた感覚になる。ミドルテンポで落ち着いた曲調だけに間奏での聴き応えのあるギターソロが光ってくる。しっとりと噛み締めながらも込めて歌う育美さんのボーカルも映える。
そんな楽曲はcinema staffのミドルテンポソング、特に"eve"や"望郷"期のサウンドとの親和性が高い。中腹のギターソロは三井さんというより辻さんが乗り移ったかのようなアプローチで、そこからラスサビへの展開がそれっぽ過ぎて初聴時にcinema staffが実際に参加してるのかと思ってしまった。サビ中腹のリードギターにも同様の感想が出てきてしまった要因だろう。何度か記載しているのだが三井さんは楽曲のアレンジの際にcinema staffの楽曲を参考にしていたらしい。今回は最たる例じゃなかろうか。
ぼっちの学校に於ける拠り所の無さ、自分自身である"ドッペルゲンガー"との対話(別々に制作されたとは言え偶然とは思えない歌詞)、書き溜めた詞達のクサい感覚、このまま過ぎ去っていくと思った日の中で結束バンドという拠り所を見つけることが出来た。これは"青い春と西の空"、"星座になれたら"に於いても描かれていた部分だが、それでもいつかはこの瞬間が終わってしまうかもしれない、それでもまだ今はこのままバンドが続いていてほしいという願いのもの。前曲のカラーリングに続き歌詞の中にメンバーの名前を入れ込んでしまうという偏愛っぷりを感じさせてしまうその描写も、ぼっちらしいといえばらしいだろうか。ただBメロの言葉詰め込み部分はぼっちの癖というより音羽さんらしさが現れている。
サビの最後部である"クロノスタシス"、曲名の"少女"という文言はそれぞれきのこ帝国とナンバーガールを彷彿とさせられてしまった。
6. Re:Re:
今回も後藤ひとり歌唱のアジカンカバーが収録。作品の命題のような"転がる岩、君に朝が降る"を経て2曲目のカバーとなる。ぼっちが、青山吉能が歌うということに個人としては意味合いを見出してしまうのでもう言うことはないのだが、どうしようもなさやるせなさを抱えながらただただ待ち侘びていた、でもずっとそのままではいられずに飛び出していくというその詞は、後藤ひとり自身のストーリーともリンクするものであり、結局のところこちらも重要な楽曲として作用してしまうのだろう。
発声は出来ているのだが、時折歯切れの悪い感じが若干あるのがまだ自信の無さが出てしまってる感じがして、どれだけ解像度高いんだと思ってしまう。
アレンジとしては再録版であるところの2016年バージョン及び長年続けてきたライブアレンジをモチーフとした長尺のもの。イントロの靄がかったような部分から段々と広がりを見せ遂にはあのフレーズが響いてくる。基調は楽曲に沿ったものだがフレーズの重ね合わせ、余韻のようなリバーブ、カッチリとしたギターでオリジナルとの差異を生む。
細かいところだがギターの位相が反転していて、リードとリズムが原曲 (再録版)とは逆側から聴こえてくるのも面白い。是非とも聴き比べをしてほしい部分だ。
過去楽曲と同じフレーズ、作中登場時のBGMの一節の引用等もあり、文字通りその"やり直し"の楽曲群のアレンジングが目立つ。タイアップであるところのリサイクルをテーマとしたものともある意味親和性が高い。(僕と三原色の)歌詞においても"再生"や"ループ"というようなフレーズが散りばめられている。楽曲の解体、再構築と共にバンド自身の再解釈といったところだろうか。これまで見ていたものは彼女たちの一部分でしかなく、それだけで判断するにはまだ早計なのだろう。
そんな意味としても、リスペクトを持ったバンドの1つとして、それでも対比を感じれるくらいASIAN KUNG-FU GENERATIONとの乖離が"光の中へ"のシングル以上に出てきたということが大きな要素となったミニアルバム。カバーはさておき。総集編の為のサウンドトラックとしてならとても高濃度の作品だとは思う。
ただ…。
フルアルバム時は感じれていた音の硬さのようなものより、制作陣のハードルを越えようとする姿勢が見え隠れする楽曲の難しさ/ポップさが粒立っているような気がして、なんだか荒唐無稽に感じてしまう。
勿論楽曲自体は良いものだし、後藤ひとりや山田リョウの制作の姿勢に向き合って作り上げたものだと言うのも分かるのだが、前作以上に全体的な纏まりが薄めで何だか変な編集盤のように感じてしまい、勿体無いと思ってしまった。総集編のOP/EDだけによるマキシシングルくらいの方が成り立ちとしては良かったと思う (強引にアジカンのブルートレインの4曲入りシングルに準えることも出来ただろうし)。
謎にタイアップが付いているというのもよく思えない部分。どうやらこの一件が決まったことで"僕と三原色"の爽やかさをマシマシで行きましょうとなったようだが、ぼっちや山田がそれを良しとしてるのか?という部分に疑問が残る。そもそもキラキラや爽やかさというものにコンプレックスを感じていたはずのぼっちがこのサウンドを良いものと飲み込んでいるのかという点が分からない(お金の為だから…と山田に押し込められたのか…?)。と思っていたけど、"こんな僕は僕じゃない、こんなの全然聞いてない、でもなんか嫌いじゃない"と結局歌詞の上で納得してるのだろうか...。
現実世界の結束バンドと、アニメ/原作における結束バンドとの乖離があり過ぎてすぐには受け入れることが難しく思える。それと高校生バンドの音源であるという設定はどうしたんだ…。あくまで1個人の意見だが。
今聴き返すとフルアルバム期の長谷川さんの声が若干若いというか、現在の凄みを増した歌唱と比べてしまえるくらい違いが現れてるように感じる。たった2年(されど2年か)とはいえここまで差異を感じれてしまうのがあまりにも恐ろしい。本人は否定するだろうが、最早"喜多郁代"ではなく"長谷川育美"名義のようにも感じれてしまう楽曲。演者として成長を感じるということはとても素晴らしいことなのだけど、やはり時間は止めることが出来ないのだなと感じされられてしまう。
フルアルバム時はアニメ放映終了後すぐのリリースだったこともあり視聴者側のバイアスが振り切りまくっていたこともあり、その熱量ままに届けられた作品の分厚さによりその感動を強く感じれていた気がするが、時間が経ちその感動も落ち着いた中というタイミングでのリリースだったからこそ、なんとも言えない気持ちが溢れてしまったのかもしれない。アプローチを広め過ぎてバンドそのもののサウンドが何を意図しているのかというのが分からなくなっているのがあまり好意的に捉えられなかった要因とも思う。
※"光の中へ"の2曲が今回よりもすんなりと受け入れられたというのは、ライブ"恒星"でセットリストに組み込まれていたからというのも大きかっただろう。初めてそこで聴くという体験があったというのはとても重要なファクターになり得るし、そこでの印象のまま終了後すぐに配信がスタートして聴くことが出来たというのも戦略としては上手いものだったと思う。
"ぼっち・ざ・ろっく!"が作品としては大好きだし、曲も勿論好きだからこそ今回の方向性には暫し納得出来なかったというのが本音だ。分かろうとするように何度も聴いて噛み砕いていくという意味ではスルメ盤なのかもしれないが。ただ、先述の通り所謂なイメージからの脱却を図ろうとするようなサウンドのアプローチに変わってきているというのも事実。フルアルバムで感じたインフルーエンスの分かりやすさから更に先のオリジナリティへと変換していく中で生まれた意欲作とも言える。これまで以上に聴く人の音楽体験によって印象が変わってくるアルバムだと思う。逆に寄せまくった作品を聴いてみたい気持ちもあるが (ファンクラブとか、剥き出しの感情を曝け出したPinkertonのようなものとか...)。
今後も作品を追いかけていくし、どういったものが更に生まれていくのかという部分は注視していきたいと思っている。舞台版も間もなく始まるのだ (既に3度見に行くことが決まっている...)、今後も更なる発展が期待出来るだろう。
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...と思ったらもうすぐ新作が出るらしい。制作陣どうなってるの、大丈夫なのか...。流石に休んでほしい。